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経時劣化をしています。

 投稿者:権威で驕(おご)るキリスト教  投稿日:2013年 9月 6日(金)13時38分13秒
返信・引用
   題:経時劣化をしています。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、経時劣化をしています。
 その1例が、「モーゼの十戒」で分かります。
 「モーゼの十戒」には、モーゼの言葉ではない言葉が入
っているという。
 また、モーゼの言った言葉は、ほんの一言・二言で、
 その言葉に、後の人たちが、書き加えたり、削ったりと
やってきた。
 びっくりするぐらいに長いものもある。
 最近、「魔女は生かしておいてはならない」を言わない
ことが多い。
 あまりにも、酷(ひど)こと、まずいことと感じている
からなのだろう。
 最近、キリスト教は逆に魔女観念を美しく見せる様な活
動をしている。
 過去に、実に多くの女性が殺されたが、これを「『負の
人類の遺産』として大切にしなければならない」のに、
 また、そうして差し上げねば、キリスト教に殺された、
あまたの女性が浮かばれないのに。
 魔女を安易に扱うことは慎(つつ)まなければならない。
 やはり、「モーゼの十戒」のこの部分は、宣教上、現代
では、当然、受け入れられないので削っているのだろう。
 モーゼの宣教の心と、当然、変わって対応しているとい
う現代、モーゼの精神とは違っている。
 「モーゼの十戒」が、現代の指針となっていないことを
示す1例。
 キリスト教は、この1例が示す様に、すべてで、カメレオ
ンの如くに変わっている。
 例えば、また1例をあげれば、第10項の「あなたは隣人
の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はした
め、牛、ロバ、また、すべて隣人のものをむさぼってはな
らない」。これが変わっている。
 「『隣人の妻』をむさぼる」は浮気の行為。この行為の
戒(いまし)めが恰好悪いと感じたのか、
 「隣人の妻」以下をカットして表示される場合が、ほと
んどとなっている。
 人前に出せないというところ、この削除も、経時の劣化
(時とともに劣化・劣った)その戒めを見せない様にして
いる行為。
 「しもべ・はしため」も「浮気対象のむさぼり」が含ま
れる。
 当時は、現代では想像ができないくらいに社会が乱れて
いた。
 また、宗教自体が、現代の倫理観ではびっくりするくら
いな破廉恥な状況だった。(エルサレム神殿に娼婦・娼夫
がいるとか、一生に一度は、町の普通の民の女性も、神殿
で、見ず知らずの男に、身を任せなければならないとかを、
神から強要されていたとか・・など)。
 「モーゼの十戒」は、あまりにも社会が乱れているので
神の言葉として出た。
 そうしなければ人々が守らない状況でもあったから。
 第7項の「姦淫してはならない」も、然(しか)り。
 社会のあまりにも酷(ひど)い乱れを映している。
 この様な、余りにも乱れに乱れている社会への戒を、こ
の現代に持って来ようというのは、TPO的にも「アウト」。
 まったく、ずれております。
 「モーゼの十戒」から、現代社会に、何か役に立つ話が
出て来るのか?
 「何もないでしょ」。
 宣教の理由は、何もないでしょう。
 第6項の、「殺してはならない」も最悪。
 あえて、言われるまでもないこと。
 この「モーセの十戒」も、他のキリスト教の資料と同じ
く、後世の人たちが色々といじくっているが、
 付けくわえたりしてきているが、
 第4項の「安息日の戒」も酷い状況になっている。
 あまりにも長すぎる。
 一目でモーゼではないと分かる。
 「安息日を覚えて、これを聖とせよ。6日のあいだ働い
てあなたのすべてのわざをせよ。7日目はあなたの神、主
の安息であるから、あなたもあなたのむすこ、娘、しもべ、
はしため、家畜、またあなたの門のうちにいる他国の人も
そうである。主は6日のうちに、天と地と海と、その中の
すべてのものを造って、7日目に休まれたからである。そ
れで主は安息日を祝福して・・(あまりに長いので略す)。
 これは、500~700年後に付け加えられたことがはっき
りしている。以下、略す。経時劣化をしています。
.
 (参考)経時劣化(けいじれっか)=経年劣化。けいね
ん‐れっか〔‐レツクワ〕【経年劣化】.[名](スル)年月が
経つうちに製品の品質・性能が低下すること。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
 
 

『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。

 投稿者:権威で驕(おご)る  投稿日:2013年 9月 5日(木)14時29分24秒
返信・引用
  題:『これからの人類共通の幸せ』が、生まれるはずがない。
...(真を求めて、皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の生まれた地、砂漠の地は、
 何一つない地だ。
 万物を焼き尽くす太陽と、
 何ものをも育てる事の出来ない「灰色の大地」だけがあ
る。
 「 神が天上にあると叫び、
    人びとは大地におののきひれ伏す 」
 「 神は嫉(そね)む神なり、
    われを憎む者にむかいては、
     父の罪を子にむくいて、3,4代に及ぼす 」。
 景色の手掛かりとなるものは、
 何もない。
 戦闘によって糧を得る事を、
 営みの中に入れている
 戦闘的な絶対唯一神を奉(ほう)じる理由は、
 この自然の環境から来る。
 また、この環境だからでもあるのだ。
 故に、この環境以外の場合、
 『存在してはならない教え』となっている。
 この地の宗教は、
 神の似姿(にすがた)をつくる事を禁ずることも、
 手がかり一つないこの自然だから来る事なのだ。
 木々は緑に、山は美しいという自然とは、
 訳が違うのだ。
 美しい自然に取り囲まれた、
 自然の一つ一つに、
 神の姿を見い出す、日本の自然は、また、
 それが当り前の、当然で自然の事。
 砂漠の神、妬(ねた)みの神、嫉(そね)みの神は、
 全身前霊をあげて、
 自分につかえる事を人々に要求し、
 その代わり自分も、
 『反対給付』として、恵みを与える事を約束する。
 その上、キリスト教の神を信じたキリスト教の信徒は、
 「神に生殺与奪(せいさつよだつ)の権利を握られてい
る」。
 キリスト教の神は、
 信徒の信を要求し、
 信徒が約束どおり、忠誠をつくした場合に、
 恩恵を与えるという神。
 砂漠の地は、色々な民族が錯綜した。
 それ故、種々の同盟や契約が結ばれた。
 このことが、キリスト教の教義になった。
 新約の宗教となった。
 ただただ、環境条件から来たことなのだ。
 (「民数記略」31章)に、他民族と争って、神は言う。
 「男と寝て男しれる女を、ことごとく殺せ。ただし、今
だ男と寝て男しれる事あらざる女児は、これを汝らのため
に生かしおくべし」。
 (「レヴィ記」20章)に、
 「女もし獣畜に近づき、これと交わらば、その女と獣畜
を殺すべし・・・(この様な、記述が続く。何らためにな
らないので、以下を略す)」。
 倫理的に、こんな聖書を読んで良い訳がない。
 当時の、古代の社会環境なら、役に立ったのかもしれな
いが・・。
 娼婦、娼夫がエルサレムの神殿に巣食っていた。
 また、一生に一度は、一般の市民の女達も、神殿に行っ
て、見ず知らずの男に、身を任かせなければならないと、
神は民へ強要した。
 こんな環境から生まれた宗教。
 古代のそのままが、現代に持ち込まれている宗教。
 そのことが、そのままに記述されている宗教。
 ここから、未来の人類の幸せが、世界共通の幸せが、生
まれるはずがない。
.
 (参考)せいさつ‐よだつ【生殺与奪】 生かしたり殺した
り、与えたり奪ったりすること。他人をどのようにも思い
のままにすること。「―の権を握る」
 (参考)『民数記』(みんすうき、ヘブライ語: ??????、
英語: Numbers)とは旧約聖書中の一書で、伝統的に四番
目に置かれてきた。モーセ五書のうちの一書。イスラエル
の民の人口調査に関する記述があることから、七十人訳聖
書では『アリスモイ』(数)と呼ばれ、そこから民数記と
いう名称が生まれた。ヘブライ語では冒頭の語から『ベミ
ドバル』と呼ばれるが、これは「荒れ野に」という意味で
ある。物語は出エジプトの出来事から二年二ヶ月後に始ま
り、ヨルダン川にたどりつくのが40年目であるとしている。
 (参考)『レビ記』(ヘブライ語: ??????、英: Leviticus)
とは旧約聖書中の一書で、伝統的に三番目に置かれてきた。
モーセ五書のうちの一書。ヘブライ語では冒頭の言葉から
「ワイクラー」と呼ばれるが、これは「神は呼ばれた」と
いう意味である。内容は律法の種々の細則が大部分を占め
ている。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
URL: http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /
URL: http://32983602.at.webry.info/
 

キリスト教の権威付け

 投稿者:権威で驕(おご)る  投稿日:2013年 9月 4日(水)14時39分53秒
返信・引用
   題:キリスト教の権威付け
...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は、教勢を拡大したいと、
 そして、それと共に必死になって「権威を付けたい」と
した。
 その為の、あらゆる行動を節操無くした。
 そこに、『神を畏れよ』のキリスト教の教義があるが、
 その教義に災いされ、
 『民を死に至らしめる行為』をキリスト教はした。
 民を殺すことによって、民を畏れさせ、そこにキリスト
教の権威が生まれるとキリスト教は考えた。
 まったく、『非人道的』な、『大罪行為』である。
 死を畏れるだけの民を・・。
 その姿に、キリスト教の権威があると、生まれたと、キ
リスト教の聖職者たちは考え、そのキリスト教の教義の行
為をした。
 その為の死を民に強いた。見せしめの死もあった。
 それ故、聖書も権威ある形へ、意味ある形へと、なって
行くとキリスト教は考え、思っていた。
 ある1例、聖書解釈・・・、
 (「マルコによる福音書」6・45~52)に、
 文脈はまったくつながらないのだが、以下の様なあらす
じの事が書いてある。
 『イエスが、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ行かせる。
その間、イエスは群衆を解散させる。そして、山へ登る。
夕方になると、(弟子たちの)舟は湖の真中にいた。イエ
スは陸にいた。風が吹いて、舟を漕ぐのが難しくなった。
それをイエスが見て、夜が開けると、イエスは水の上を歩
いて、弟子たちの所に来た。そばを通り過ぎようとした。
弟子たちは水の上を歩くイエスを幽霊だと思った。そして、
大声で叫んだ。弟子たちはおびえていた。イエスは弟子た
ちと話をし、『安心しなさい。わたしだ。恐れるな」と言
った。イエスが舟に乗ると風は止み弟子たちは驚いた。パ
ンの事が理解せず、心が鈍っていたからだ」・・・と、マ
ルコは書く、これが記述のポイントである。
 聖書研究者は、これは「民間説話からとられた」と言う。
 そして、「水の上を歩くと奇をてらった話は他の宗教に
もあること」と言う。
 それにしても、脈絡がつながらない話だ。無駄な動きも
多い。
 ここをキリスト教聖職者は、意味あるものなのだと言う。
これが仕事と言えば仕事なのだが・・。
 例えば、弟子たちを舟に乗せる時に、「強いて」という
言葉が書いてあると・・この『強いて』に意味がある・・
と言う。
 弟子たちを「励まし」、「試みさせているのだ」と言う。
 そしてまた、「山へ登った」という事に対して、すぐ思
い出される有名な話。
 「モーゼが山へ登って神に会い。神と契約をした話」を
持ち出す。
 「この時、イエスは山に登って神と契約したのだ」・・
と。
 しかし、こんな大切な話を、ただ、「山へ登った」で、
あとは何も書いてない。変だと思う。
 そして、何時、山から降りたとも書いてないし、山の上
で何があったのかも、書いてない。
 イエスが山へ登ったからには、何か、『重大な』意味合
いがなければならないはずなのだが、何も書いてない。
 そこを、聖職者の口でつながっていく。
 このくらいの事を言いイエスの行動の意味合いを言う。
 モーゼが出て来る。
 そう言われても、聖書の字面だけでは、「登った」しか
書いてない。他の、何の意味合いも記されてない。
 そしてまた、「夕方、舟が、湖の真中に出たのは、夕方
という闇の世界で、湖の真ん中という「混沌(カオス)」
を表している」のだと言う。だから、どうしたがない。
 イエスが、陸にいるというのは揺れる舟の上とは違い、
揺れない陸にイエスは居ると言いたかったのだと言う。
 イエスの権威を上げる事しか意味がない、これを読んだ
信徒の方たちのためになる話の意味合いは何もない。ただ
揺れない陸に居ただけの意味しかない。
 そして、聖書の他の部分にも多くあるが、「風を止ませ
る行為」がここでも出て来る。
 イエスが、風を止ませる事をしたと説明する。そのイエ
スの凄(すご)さを分からない弟子たち、そして、無理解
を繰り返す弟子たちに、マルコは批判を展開した・・と、
聖書研究者は言う。
 だから、イエスは、「夜明けまで待ったのだ」と。
 聖書の記述の意味合いをアッピールする。
 「通り過ぎる」も、神が出現するときは「通り過ぎる」
のだと。旧約聖書にもこの様な事が書いてある・・と。
 神出現の権威づけの行為と考えられる。
 そして、イエスが「わたしだ」と言ったのは、「私は神
なのだ」と言った意味なのだという。
 だから、そこを驚いた弟子をマルコは批判したと。驚い
てはいけないのだ。ああやっぱりと思わないと。
 だから「パンの事。済んだ事まで持ち出して、マルコは
批判したのだ」・・と。
 なんだ、かんだと意味合いを付けをする。
 聖職者が、色々意味合いを付けるが・・、
「マタイによる福音書」では、「弟子のペトロが水の上を
歩いて」、イエスの所へ行っている。
 その様に、マタイは、マルコを書き直している。
 そして、風でペトロが沈みかけると、イエスに助けて貰
っている。
 ここを、キリスト教聖職者は、イエスの方が、ペトロよ
り上だと言っているのだという。
 (注):ペトロは、聖書の別の記述の中で、イエスに叱
られた時、イエスを叱り返す様な弟子で、イエスと同列
意識があるから、ここでは、この様に書かれているのだと
感じる。
 そして、キリスト教聖職者は、イエスの神格化を示して
いると強調する。『わたしだ』とだけ言った言葉で・・。
 この様な記述は、まさしく、ブルトマンが、「古代の『
魅力に欠けた』古い神話的記述」と言った様な方法で権威
づけをしている、これでしか、イエスを神格化できない。
 また、ブルトマンが『古代の泥沼にはまる」と、半分、
軽蔑した様な方法でしかできない、
 「意味のない言い方の権威付け」をする。
.
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イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。

 投稿者:思いやりを  投稿日:2013年 9月 1日(日)02時19分40秒
返信・引用
   題:イエスの時代、預言者と言われる人たちがいた。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの時代、預言者と言われる人たちがいっぱいいた。
 或る者は、官の身分の預言者だった。
 イエスは、「私の身分」の預言者だった。
 預言者は、「予言が当たらないと、民から総スカンを食
らった」。
 その様な、預言者・予言者が謹慎・自粛する例もあった。
 予言者は、民から喝采を浴びることが生活につながった。
 民へ媚(こ)びへつらう傾向があった。
 競争の激しい預言者たちであった。
 預言者は、その様な身分で、社会からの受け入れ方で、
民から尊敬されている訳でもなかった。
 イエスも、故郷に帰っている時に、イエスを知る故郷の
人から「預言者とは、旨いことをしているな」と言われて
いる。
 また、この時代、ほとんどの予言者が、処刑された。
 イエスも自分が、その様になることを予感していた。
 しかし、実際は十字架に付けられた訳だが、イエスは、
「石打の刑」になると思っていた。
 そして、予言者たちが処刑されて行くのを嘆いている。
 『エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に
遣わされた人々を石で打ち殺す者よ」(「マタイによる福
音書」23・37)(「ルカによる福音書』13・34)。
 イエスの「自己理解力の限界」が見える。
 イエスの、あまりにも人間的な面を伝えるところで、
「水の上を歩くイエス」とか、「死者を生き返らすイエス
」とかは、つくづく作り話だなと思わせ、感じさせる一説
の1つの事例である。
 また実際、タルムードには(「バビロニア・タルムード
」「サンへドリン」43a-b)の様に、「イエスが、石打ち
の刑にされた」と伝える記述もある。
 そして、キリスト教は、「非神話化」をしなければなら
ないとした人がいた。
 その人は言う、古代人ではない、もう、その手は効かな
いと。
 ブルトマンは、キリスト教福音書の中の『魅力に欠けた』
古い神話論的言語を取り除こうとした。
 「古代人たち」は、処女降誕にも、水の上を歩く様な超
自然的奇跡を行なう「神の人」にも、困難を感じなかった
が、
 いかにしたら、その様な『古代の泥沼』に、はまらない
でよいかを示す試みを、ブルトマンは、「非神話化」を通
して示そうとした。
.
(参考)よげん‐しゃ【予言者】 :未来を推しはかって言
う者。
(参考)よげん‐しゃ【預言者】 1(神の言葉を) 預言する
力を与えられた者。
(参考)タルムード【(ヘブライ)Talmud】 《教訓の意》
ユダヤ教の宗教的典範。モーゼ律法および社会百般の事項
に対する口伝的解答を集大成したもの。本文ミシュナとそ
の注釈ゲマラの2部からなる。4世紀末ごろ編集されたパレ
スチナタルムードと6世紀...
.
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キリスト教の話の初め・・アブラハムたち

 投稿者:思いやりを  投稿日:2013年 8月29日(木)02時02分20秒
返信・引用 編集済
   題:キリスト教の話の初め・・アブラハムたち
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 wikipediaに、以下の様に書かれていますが、まったく
キリスト教の話に都合のよい話に書いているプロパガンダ
(嘘宣伝)です。
 wikipedia記述内容:「アブラハム (英語 Abraham ) は、
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信じるいわゆる聖典
の民の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点と
して選ばれ祝福された最初の預言者。『信仰の父』とも呼
ばれる」と。
 また、
 「ユダヤ教の教義では、全てのユダヤ人の、またイスラ
ム教の教義では、ユダヤ人に加えて全てのアラブ人の系譜
上の祖とされ、神の祝福も律法(戒律)も彼から始まる。
 イスラム教ではイブラーヒームと呼ばれ、ノア(ヌーフ)
、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)、ムハンマド
と共に五大預言者のうちの一人とされる。キリスト教の正
教会においてはアウラアムと称され、聖人に列せられてい
る。族長と呼ばれるヘブル人の先祖たちの一人である」と。
 ・・・wikipediaには、上記の様に書かれているキリスト
教の聖書に書かれる最初の人たちアブラハムは、実は、
 キリスト教とは全く違う人たちだった。
 紀元前1700年の頃、今から約3700年前、アブラハムは、
チグリス・ユーフラテス川の下流にある「ウル」を出立し
た人たちだった。
 向かった先はパレスチナのカナンの地だった。
 アブラハムの一団は数100人で裸足であった。
 これで砂漠の地を羊を追いながら進んだ。
 彼らの宗教は『 多神教 』であり、
 また、特に、『 樫の木を崇拝した 』。
 彼等の住まいは天幕であった。
 多くの町を通過した。
 ナプルウスというアラブ人の町に着いた時には、
 彼等は、この石の城壁に守られた町に入らずに天幕を張
った。
 彼ら一行に途中から加わる者もいた。
 また、途中の町に長く留まった町もあった。ハランデと
言った。
 アブラハムの父のテラは、ここで亡くなった。
 彼等はこの様な苦難の後に「カナンの地」に至った。
 出立地のウルに残した親族もいた。
 ウルは肥沃であったが、時々、洪水に見舞われた。(創
世記11章、12章)を参照。
 ただ、この様な事、アブラハムたちがやった事は、アブ
ラハムたちだけが、やったという訳ではなかった。
 この様に、北へ向かう半放牧のセム諸部族は多くあった。
 キリスト教の聖書の記述だけが特別なのではない。
 また、キリスト教とは全く違う宗教・多神教であり
 また、『樫の木を崇拝する宗教』の話なのである。
 また、ユダヤ教徒も違う。
 自然崇拝である。
 ヤハウェ神も影も形もないアブラハムたちであった。
.
(追伸)
 カナンの地へ向かって、
 チグリス・ユーフラテス川のウルを出立したアブラハム
は、
 カナンへ向かったという訳ではなく、
 カナンの地へ着くまで、あちこちを彷徨(さまよ)った
のが事実。
 ダマスやシケムなどをたどり、天幕の旅の生活は続いた。
 そして、ネゲヴの荒野に行き、
 それからエジプトに行く。
 ここであやうく妻のサラを奪われそうになったりした。
 そして、ベテルに戻り、ヘブロンへ行く。
 この様にイスラエルの民となったアブラハムは、パレス
チナの地、、メソポタミアの地、エジプトの地などを彷徨(
さまよ)っていた。
 生きる糧を求めたさすらいだった。
 この様に、エジプトの地もよく出入りする地だった。
 また、イスラエルの民は、カナンの地に定着したらその
まま定着し続けたという訳ではなく、
 定着した後も、
 羊と山羊を連れて、
 生きるために方々を彷徨った。
 エジプトの地も、その様な地の一つだった。
 モーゼの話のような劇的な話ではない。
 エジプトは通常の行き先なのだ。
 エジプトの地はちょっとした出入りの地なのであった。
 モーゼの話は作り話なのである。
 モーゼの実在もないとされているのが真実。
.
(追伸の追伸)
 イスラエルの民は純粋種ではない。
 混血が、あらゆる機会に行なわれている。
 日本の様な島国で混血がない様な種族と違う。
 (海を渡って大陸から少しは来たが)
 イスラエルの民の地は、あらゆる種族が行き交(か)う、
 また、自分たちもさ迷(まよ)う歴史だった。
 その中で、血が混ざり、イスラエル種族は形成されて来
た。
 キリスト教の聖書には、「娘は異教徒へ嫁にやるな」「
異教徒が増えてしまう」などと説いているが、
 まったく、国際的な感覚の無くのないキリスト教の教義
であるが、事実は、イスラエルの民は混血に次ぐ混血であ
った。
 何でこんな狭量の教義を民へ押し付けているのかと軽蔑
する。
 カナンの地には、ヘテ人(ヒッタイト人)やアモリ人(
西方セム族)などの先住民が居た。
 カナンに渡ったアブラハムたちは、俗に言う「よそ者」
だった。
 アブラハムたちは、この先住の民と混血した。
 キリスト教の教義などそっちのけ。
 地になじむためもあったのだろう。
 例えば、アブラハムの孫(アブラハムの子・ヤコブの子
供のエサウ)は、ヘテ人の女性と結婚した。
 (エゼキエル書、16章)「汝の母はヘテ人、汝の父はア
モリ人なり」など。
 キリスト教の神の言葉は、アブラハムの時代においても
無視されていたと言える。
 因(ちな)みに、エサウの結婚したヘテ人は、インド=
ヨーロッパ系の民。
 アブラハムの家系にインド系の血も混血してる。
 同時に民が持っている宗教性も伝搬している。
.
(追伸の追伸の追伸)
 紀元前7000年頃から、中近東の全域および北アフリカ
一帯は砂漠化が始まった。
 パレスチナのカナンを含む「肥沃の三日月と呼ばれる地」
はその砂漠化から残された地となった。
 ここに住む人々は、はじめ「略奪農業」という「土地が
痩(や)せれば他へ移る」という行動であったが、次第に
定着して行った。
 紀元前5000年頃に、エルサレム周辺に人々は住みついた。
 ちなみに、紀元前2100年頃、チグリス・ユーフラテス川
の地に、スメール最後の王朝(ウル第三王朝)がたち、王
朝を樹立したウル・ナンムは、支配地のバビロン(ばべる)
に「バベルの塔」を作らせた。
.
  (詳しくは、以下のブログへ)
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自分以外の生命への思いやりを・・

 投稿者:思いやりを  投稿日:2013年 8月27日(火)15時52分42秒
返信・引用 編集済
   題:自分以外の生命への思いやりを・・
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 『里山・資本主義』という言葉がある。
 里山の自然をうまく生かして、
 日本人は『里山と共に』生きて来た。
 里山には、人と自然が『共生』していた。
 人が育み、自然が恵みのお返しをしてくれる。
 人は自然を必要とし、自然も人を必要とする。
 人があってこそ、自然の健全な姿を保った。
 そこでは、自然のサイクルの中で、経済的にも成立って
いた。
 サイクルは永遠に、自然に負担をかけずに、巡(めぐ)
った。輪廻した。
 永遠に続く優しい継続する姿だった。
 しかし、古来から育み育てて来た里山と生きる経済シス
テムは、
 例えば1例だが、
 安い外来木材で、里山経済は、大打撃を受けた。
 里山経済は、優しく、微妙なバランスの上に、成立して
いる。
 長い期間、辿(たど)り、至った、輪廻の状態だった。
 外国の場合、
 大きな面積の森林は、
 木々は、すべてを皆、伐採される。
 見はるかす彼方(かなた)まで、畑とし、
 大きなトラクターでの農業をやるシステムだ。
 そこには、
 一面に単一作物があるという農業だ。
 あまりにも広大な、大きな畑に働く農家の人たちは、
 あまりに広大な故に、農地であるため、
 何処にいるかが、分からない。
 日本の場合、里山を生かし、自然を壊さず、『利用させ
て戴いています』の精神で、自然の中に人の所在も分かり、
 里山も人格があれば『お礼を言うでしょう』と感じる。
 その中で、時が流れて行く。
 世界で、『サトヤマ』という日本語が、世界語になって
いるという。
 その様に、注目を集めている日本の里山の成り立ち。
 キリスト教には、「地を従えよ」と説く、教義がある。
 『自然の征服』を教義としている。
 仏教は、地には仏があちこちに居られるという教え。
 キリスト教の教えから出る結果は、総べて地にある木々
は伐採である。征服の教えから当然の姿なのだ。
 萌映ずる草草はトラクターで踏みにじり、そこに生きて
居た生き物へは目が届かず、
 鳥や獣、虫たちの生きる姿も踏みにじる。
 キリスト教は、それが教義なのだ、「これでよいのだ」
という。
 「神の居る天のみ清浄」。「地は汚(けが)れている」
とキリスト教は教える。
 「自分さえよければ良い」のキリスト教なのである。
 自分以外の生命への思いやりの教えを説かなければいけ
ない今なのである。
.
(追伸)
 本「(株)貧困大国・アメリカ」の著者・堤未里氏が
言う。
 「アメリカでは驚愕(きょうがく)の事態が進行中。
 それは人々の食、街、政治、司法、メディア、暮らし
そのものが、じわじわ蝕(むしば)まれていく。
 あらゆるものが、巨大企業に飲まれ、
 株式会社化が加速する世界。
 果たして国民は、主権を取り戻せるのかが疑問になっ
ている」。
 キリスト教国・アメリカの実態・姿を言っている。
 征服する強いものが良い、
 勝って取れれば自分のものにする、
 それが神の義なのだという、
 自分さえよければいいというキリスト教の根底に流れ
る教えが、この様な形になって現われている。
 TPPもこの形だ。流れだ。
.
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聖骸布について・・誰でもわかる事が

 投稿者:氷山の一角  投稿日:2013年 8月23日(金)13時19分13秒
返信・引用 編集済
   題:聖骸布について・・誰でもわかる事が
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 キリスト教は嘘が多いが、程度の悪い嘘は、『考古学的
発見の嘘』である。
 21世紀に入る少し前、『イエスの巻き物』が発見された
と騒がれた。
 これには、学者も騙された。
 新聞・雑誌も大々的に報じた。
 また、21世紀に入って、間もなく、イエスの弟・『ヤコ
ブの骨壷』が発見されたと騒がれた。
 『イエスの巻き物』は、現代科学の力で、捏造(ねつぞ
う)が証明された。
 「ヤコブの骨壷」も、専門家たちは、やはり偽物とみて
いる。
 キリスト教は、キリスト教も嘘が多いが、その嘘が伝染
したのか、キリスト教の周りも嘘が多い状態。
 キリスト教は、自分に嘘が多いし、その嘘を言い張って
いるから、他を批判できない。
 この様な事で権威が落ちている事を自覚していない。
 特に、「聖骸布」の嘘はまったく改めようとしない。
 イエスが刑での死後、十字架から下ろされたイエスに、
布が被(かぶ)せられた。
 また、布なら、軟らかで、しなって、イエスの顔は、横
幅が広くなり、太っている様に見えるわけだが、
 まったくその様ではなく、
 正面からの正常な写真の様に描かれている。
 その布に、イエスの顔や体が、さも、プリントされた様
に描かれているというものである。
 化学分析の結果、中世のころのもの(布)と判明してい
るが、キリスト教は認めようとはしない。
 また、近年、キリスト教会は、この布を修復したという
(人間が修復したらいけません)、また、複数あるという
ことが何か変な感じがする。
.
 (参考)ねつ‐ぞう【捏造】 [名](スル)《「でつぞう
(捏造)」の慣用読み》事実でないことを事実のようにこ
しらえること。でっちあげること。「記事を―する」
 (参考)wikipediaには、以下の記述がある(抜書き)。
  聖骸布(せいがいふ、Holy Shroud)は、キリスト教
でいう聖遺物の一つで、イエス・キリストが磔にされて死
んだ後、その遺体を包んだとされる布。イエス・キリスト
の風貌を写したという布には、聖ベロニカのベール、自印
聖像など、複数あったといわれるが、ここではただ一つ現
存するトリノの聖ヨハネ大聖堂に保管されている「トリノ
の聖骸布」(Shroud of Turin)を解説する。
 通常は一般に向けて常時公開されてはいない。カトリッ
ク教会の大聖年にあたる2000年に一般公開され、その後
2002年に修復作業が施された。2010年には修復後初めて
一般公開された。
 イギリスのサリー州ギルフォードで開業していた医師の
デイヴィッド・ウィリス博士が写真を元にした検討をした。
それによると、聖骸布の像の人物の背中には多数の鞭打た
れた後があり、3本の皮ひもの先に2つの小さな金属球がつ
いた「フラグム」という鞭で打たれたと考えられる。放射
線状についた傷の跡から、二人の執行者によって鞭打たれ、
右にいた人間の方が若干背が高かったとされる。
 聖ヨセフ病院の外科医長ピエール・バルベは実験を行い、
聖骸布で示される位置に釘を打つと手首の骨の隙間を押し
広げてとおり、簡単に貫通した。また神経の損傷により親
指が内側に曲がることを発見し、聖骸布の状態を確認する
と親指が隠されて陰影は写っていなかった。また、イエス
の磔の絵はほとんどの場合手のひらに釘が打たれて描かれ
ており、これらのことは聖骸布の陰影は誰かによって人為
的に描かれたのではなく、(イエス本人であるかは別とし
て)実際に磔刑にされた人物によるものであるという強い
医学的証拠である。
 「律法」によって死者は日没までに埋葬しなければなら
なかったため、ユダヤ人の受刑者は日没少し前までに死亡
しない場合、脚を折って死を早められた。聖骸布の人物の
脚が折られていないことは明瞭である。また、右脇に楕円
状の傷がある。ここから流れる血による陰影には、色の濃
い部分と薄い部分とがあり、血液と透明な液体とが混ざっ
ていたと考えられている(ウィリス博士)。
 これまでの調査では、その信憑性について支持的なもの
から懐疑的なものまで、結果は多岐に渉る。あるときは顔
料で描かれた絵であると推定されたり、後年の創作物であ
ると結論づけられたこともあった。
 1988年の調査では、オックスフォード大学、アリゾナ大
学、スイス連邦工科大学の3機関において、考古学などで
資料年代推定に用いられる放射性炭素年代測定(炭素14法
年代測定)が行われた。その結果、この布自体の織布期は
1260年から1390年の間の中世である、と推定された。
 1973年にスイス警察犯罪科学班のフライ博士によって行
われた聖骸布の花粉調査によって、レバノン杉をはじめ、
49種類の花粉粒が発見された。その中の13種類については
死海周辺にしか群生していない植物のものであった。しか
し、これはあくまでそう言う花粉粒が発見されたというだ
けであり、聖骸布が中東方面から来たとする絶対的な証拠
となるわけではない。
 また、ネガ状の全身像についても、どのような過程でそ
こに付着したのか、もし後年作成されたものであったとし
てもどのような材料や方法でそれを作成したのか、などま
だ不明な点が多い。
 カトリック教会は布の真偽に関係なく、信仰のための重
要な道具であるとの立場である。
.
 (?の追記)この文に記した様に、『布は被せられた』
のではなく、『巻かれた』のだとされている。
 この文に、『被せられた』と記した理由は、巻かれたの
であれば、1例として、耳などが、耳の正面から描かれてい
る様に写っているわけですが、
 聖骸布は、カメラで正面から移したようにプリントされ
ている。
 つまり、正面から見た耳となっている。
.
 (追伸の追伸)
 『神の御業(みわざ)』が、この様な聖骸布をなしたと、
主張するキリスト教が、
 何故、修復しなければならなかったのですか?
 神のなせる御業(わざ)は、完全ではないのですか?
 神の御業が完全であるなら、修復は不要なはず、
 必要ないわけではないのすか?
 それが、修復が必要だったということは、『神は完全な
事はなされなかった』ということなのですか?
 キリスト教が、修復したと発表したのは、「神の御業は
不完全なのだ」と発表したようなものではないですか。
 さらに、『神の御業がなしたものを、人間の手で修復し
た』とは? おかしいのではないですか?
 神が不完全だから人間が修復しましたと言っている様な
ものです。疑問です。
.
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生き延びている宗教の『態』

 投稿者:エルサレムの実態  投稿日:2013年 8月22日(木)16時37分15秒
返信・引用 編集済
   題:生き延びている宗教の『態』
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イエスの教えが意味を持つのは、『紀元前20年~紀元
70年の間においてだけ』・・という主張がある。
 この主張は、イエスの思想は『今・現代において意味を
なしていない』という主張であって、
 1例をあげれば、
 イエスは、当時のユダヤ教の「清浄規定」に反対した。
 その時代は、第二神殿の再建と増築によって霊性と聖性
をますます強調する動きが拡大した時代であり、
 その時代において、ユダヤ地方と下部ガリラヤ地方での
ユダヤ教の宗教生活を定義づけるものは、「ミクヴァオー
ト」(ユダヤ教の祭儀に用いられる浴槽)であった。
 さらに、「石の器」が習慣的に造られ、売られ、買われ
たのは、その時代のみであった。
 霊的清さを確かなものとする「ミクヴァオート」と、
 その中身が汚れに染まってしまわないように守る「石の
器」は、エルサレム神殿の祭司たちによって展開された、
極端なユダヤ教の「清浄規定」に基づいて要求されたもの
であった。
 その様な背景において、イエスは反対運動をした。
 イエスは言う。「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さ
と)って下さい。外から人の体に入るもので人を汚すこと
が出来るものは何もありません、人の中から出るて来るも
のが、人を汚すのです」・・と。
 これは、民をいじめていた、ただ、山のてっぺんに神殿
を建てて、君臨していた宗教権力。
 それでなくても、武力で征服したローマ政府の権力組織
の圧政を受け、苛(さいな)まれていた民をターゲットに、
ひと儲けしようという行為だった。
 民に、何ら、ためにならない宗教権力を誇示するだけの
「エルサレム神殿宗教権力」に放った「イエスの怒り」だ
った。
 「神殿税」という重圧を民にかけ、
 更に、無益な、当時の宗教教義から来ている「清浄規定」。
 イエスは、揶揄(やゆ)った。
 馬鹿馬鹿しい「清浄規定など止めてしまえ」の気持だっ
た。
 イエス特有の理屈っぽい言葉を放った。
 変な「清浄規定」なんか作って、民を惑(まど)わせ、
民を不安に陥(おとしい)れ、
 「ミクヴァオート(浴槽)」買わすとは・・。
 キラキラとした作られた権威、
 空虚な権威をちらつかせ、
 迷信を信じ込ませ、
 民から金を巻き上げて。
 「そんな浴槽で体を洗ったって、清浄なんかになるもの
か」・・。
 「外から人の体に入るもので、人を汚(けが)すことが
出来るものは何もないのだ」・・。
 浴槽で清浄になんかする必要は無いのだ。
 あなたたちは知らないが、
 「人の中から出てくるものが、人を汚すのだ」。
 イエスは、当時の「神殿の宗教権力」にこの様な言葉で
対抗した。
 イエスの言葉は、民の苦しさを知る心から発した。
 『当時の、社会事情においての言葉』だった。
 今・現代にない、神殿の宗教教義に抗した。
 イエスの思想は、この言葉の例のように、BC20年~AD
70年のあいだ「のみ」に意味を持っている。
 この間の期間にだけ、意味を持っている言葉なのだ。
 経時(時の経過)の劣化が明らかなのだ。
 この言葉を、現代のキリスト教聖職者が、「尾ひれ・は
ヒレ」を付けて話したら、それは、イエスの言葉を借りて、
利用して、自分の宗教観、「この聖職者の独自の宗教の披
露行為となる」。
 自分の話に自分が酔っている。
 救う宗教の体をなしていない。人々を幸せにする態をな
していない。キリスト教ではない。
 この様に、キリスト教聖職者が、勝手に自分の好きなよ
うに、キリスト教を演じているから、キリスト教は、四分
五裂して、分派がいっぱいの状態になっている。
 キルケゴールは言う、「キリスト者とは信仰の飛躍をす
る者」だ・・と。
 キリスト教は、四分五裂し、形を変えて(キリスト教で
ないキリスト教が)生き延びている。
 教義が破綻した宗教が起こす現象の『これは一端』なの
だ。
..
(追伸)前記した、イエスが言った言葉だという、
 「みなさん、私の言う事を聞いて悟(さと)って下さい。
外から人の体に入るもので人を汚すことが出来るものは何
もありません、人の中から出るて来るものが、人を汚すの
です」・・は、
 イエスの衛生観念や衛生に関する知識についても教えて
いて興味深い。
 実は、本当は、衛生のために浴槽に入って身体などを洗
い、清潔さを保つというエルサレム神殿の「清浄規定」は
正しいのである。
 イエスが間違っている。
 イエスは、やはり古代人なのだ。
 イエスは、「細菌の存在を知らない人」なのだ。
 イエスの言葉の「外から人の体に入るもので人を汚すこ
とが出来るものは何もなく・・」という言葉は、『大間違
い」。
 外から入るものこそ、清浄にし、衛生的にしていなくて
はならないのだ。
 イエスの考えている事とまったく逆なのだ。
 病気の原因の細菌を知らないイエスなのである。
 イエスの「外から入るもので、人を汚すものは、何もな
い」は無邪気な無知識だ。
 イエスは、人々に「間違った『宣教』をしている」。
 イエスは、人々に「私の言う事を聞いて悟りなさい」と
言っているが、真実を聞いたら、恥ずかしくて、イエスは
顔を真っ赤にするだろう。
 「知ったかぶりをシテ、人々に無知な事を言ったと恥じ
る」だろう。
 イエスは、「人の中から出て来るものが、人を汚すのだ」
と言っているが、
 キリスト教聖職者が、ここを美しく「人が発する『言葉』
を含めて話をする場合が考えられるが、これは「エルサレ
ム神殿の『ミクヴァオート(浴槽)』の売り付け行為の
「清浄規定」に関する場合なので、人の発する言葉を含め
た話に仕立てるのは脱線である。
 例え、「人の発する言葉を入れたとしても、確かに、人
が発する言葉は「人を汚す場合」もあれば、「宣教の言葉
の様に『ロゴス』となって人々を導きもする」。
 イエスの「人から出るものが汚す」は、細菌など目に見
えない「真に汚すもの」を知らない人間の言葉で、
 このイエスの言葉は、「目に見え得る『糞尿』について
言った言葉だ」。
 ここには、イエスの古代的知識しかない。
 『イエスの限界』はやむを得ないが、現代人には何ら
示唆など、当然、与えないという結果となっている。

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人類救済のために・・・

 投稿者:エルサレムの旅  投稿日:2013年 8月22日(木)01時17分35秒
返信・引用
  題 : 人類救済のために・・・
 ...(真を求めて、皆様と共に幸せになりたい)
 人類の救済のために、皆様の幸せのために、あえて言わ
せていただきます。
.
 キリスト教には、戦争原因になる教義「(キリスト教の)
神の義があれば、人を誅しても良い」があるが、
 そしてまた、キリスト教の教義「異教徒は殺せ」の教義
の様に「異教徒や異民族に対する『殺戮を認める教義』が、
キリスト教には多くある」が、
 これからの人類の幸せの為に、これ等の教義は正して行
かなければならない。
 次の1つの事例、
 ユダヤ民族に対しても、あまりにも根拠のないこと(キ
リスト教の勝手な教義)を言いがかりにし、
 長年月、ユダヤ人の方々を虐げて来た。
 一時期、ユダヤ人は激減し、絶滅の危機もあった。
 この様な、悲惨な事態がキリスト教によって起こされた。
 イエス・キリストが(ヨハネによる福音書 8章)で言う、
『汝らはおのが父、悪魔より出でて・・』と。
 このイエスの言葉で、ユダヤ人は悪魔から出たと濡れ衣
を着せられ、
 ユダヤ人は悲惨な運命を辿る民族とさせられた。
 卑劣なキリスト教である。
 卑劣な言葉である。
 卑劣な教義である。
.
 キリスト教の神父や牧師は、それを人々に説き、教え、
 刷り込んで来た。
 卑劣な行為・告げ口である。
 言われたキリスト教の信仰者のキリスト教徒は、「ユダ
ヤ人を仇敵と見なし、ユダヤ人への仇敵視の意識を刷り込
まれた」。
 キリスト教聖職者によって憎悪を掻き立てられた。
 迫害を行なう素地を産んだ。
 ユダヤ人たちは貧窮のどん底にも落ちた。
 それは、家畜用残飯でも喜んで食べるという生活状態だ
った。
 ユダヤ教への転宗が、キリスト教によって禁止され、新
たにユダヤ教に入ると『死刑』とされた。
 キリスト教徒を奴隷に使う事も厳禁となった。
 キリスト教徒とユダヤ教徒との同居も厳禁。
 犯せば死刑だとした。
 (ナチスはキリスト教を悪の見本とし、同じ事をした)。
 ユダヤ教徒の会堂(シナゴーグ)の新築も厳禁。
 ユダヤ教の布教活動も厳禁。
 違反者は死刑。
 キリスト教は、人々に、ユダヤ教を「セクタ・ネフアリ
ア(邪悪なる宗教)」と呼ばせた。
 ユダヤ人迫害は、歴代のローマ教皇からなされた、そして、
 その一方で、ユダヤ商人から金銭を取った。
 ユダヤ人に職業選択の自由を与えず、
 キリスト教が忌み嫌う「金貸し」をさせ、
 ユダヤ人商人が「あくどい」と、キリスト教が、良くや
るプロパガンダ(嘘宣伝)をした。
 民衆は怨み、そして嫉妬した。
 イエスもエルサレム神殿の前にある金貸しの店に乱暴を
働いている。
 「『悪魔の子』ユダヤ人は、悪魔の助けで金儲けをして
いる」・・と、プロパガンダした。
 法律でユダヤ人を、一区画に住まわせ、閉じ込めた(ゲ
ットー)。
 悪い噂も流した。
 「ユダヤ人は、過ぎ越しの祭りのために、キリスト教徒
を殺して祭壇に捧げている」。
 この様な、あくどい事を考えたのは、キリスト教聖職者
たちであった。
 「ユダヤ人は、キリスト教徒の子供を殺し、その血をパ
ンに塗って食べている」。
 「ユダヤ人は、毎年、何処かに集まって、次の犠牲者を
誰にするか、くじを引いて決めている」。
 人々は、これ等の噂を信じた。
 キリスト教で尊敬されている大司祭の聖職者・聖アゴバ
ールは、「ユダヤ教は迷信だ」と叫んだ。
 そして、「ユダヤ人商人の悪がしこさに、我慢ができな
い」などと叫んだ。
 人々は、キリスト教会の煽動で、狂暴化し、煽られた。
 領主も利害を意識し、ユダヤ人を虐殺した。
 この様な事が、事あるごとに引き起こされた。
 ユダヤ人殺戮も、段々組織的に行なわれるようになった。
 やはり、キリスト教聖職者の煽動で始まった十字軍の、
第1次十字軍の時は、ライン川地方などのユダヤ人の方々が
殺戮された。
 また、第2次十字軍の時は、北フランスなどのユダヤ人の
方々が殺戮された。
 第3回の十字軍の時は、イギリスのヨークの町などのユダ
ヤ人の方々などが殺戮された。
 ・・あちこちで、無数のユダヤ人の方々が殺戮された。
 キリスト教徒の子供の血を吸ったとされ、殺戮された。
 人々の面前で焚刑にされた。
 第4回のキリスト教宗教会議では、「ユダヤ人は改悛する
事を知らない徒だ」と議決され、断じられた。
 だから、「ユダヤ人はキリストの肉である聖パンを、拷
問し、苦しめている」と断じられ、決め付けられた。
 だから、「ユダヤ人は、『不信仰の印のダヴィデの星』
を外出する時は身に付けよ」と断じられ、強いられた。
 ユダヤ人追放も、組織的、徹底的に行なわれ、ユダヤ人
は、身の回りの、僅かな荷物だけを持ち、泣く子の手を引
き、逃れた。
 東欧へ多くが向かった。
 キリスト教徒は、聖パン刺傷を口実に、ユダヤ人を裁判
にかけた。
 黒死病が流行して、人心が乱れた時、200以上のユダヤ
人の町や村が「悪魔の子」とされ、壊滅状態にされた。
 ユダヤ人に対し、無法状態だった。
 「殺そうが、生かそうが勝手」という状態だった。
 ナチスも、この真似をする。
 ナチスの行為の原因はキリスト教が作った。
 キリスト教が『愛の宗教』なんてとんでもない事。
 12世紀には、推定で150万人のユダヤの人々が居たが、
何と、その『 8割 』をキリスト教徒は殺した。
 生き残ったユダヤの人々は、僅か30万人という人数へ激
減した。
 8割のユダヤ人の方々が居なくなってしまったのである。
 ユダヤ民族は絶滅の危機に遭遇した。
 ユダヤ民族は、貧民街区に押し込められ、苦しい悲惨な
生活を強いられた。
 その後、幸いユダヤ人の方々の人口は復活したが、キリ
スト教の教義には、この様な卑劣な教義が潜(ひそ)み、
その教義の遺伝子は、今・現在も、引き継がれている。
 正さなくてはいけない、直さなくてはならない。
 これからの人類の幸せのために。
 それにしてもあまりにも悲惨なイエスの呪いの言葉であ
る。
.
(参考)あくどい 1 〔性質が悪い〕vicious; wicked あく
どい商法crooked dealing あくどいやり方、
(参考)ゲットー【(イタリア)ghetto】 1 中世から近代
にかけて、ヨーロッパの諸都市に設けられた、ユダヤ人の
強制居住区域。
(参考)かい‐しゅん【改悛】 [名](スル)犯した悪事や
過ちを悔い改め、心を入れ替えること。改心。改悟。悔悛。
(参考)こくし‐びょう【黒死病】 《死体が、皮下出血で
黒いあざだらけになるところから》ペストのこと。
.
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まず、嘘は言わないこと・・。

 投稿者:エルサレムの旅  投稿日:2013年 8月10日(土)00時52分47秒
返信・引用
   題:まず、嘘は言わないこと・・。
...(真を求めて 皆様と共に幸せになりたい)
.
 イスラム教は一神教。
 それを誠実に守っている宗教である。
 故に、その一神の神は、「アッラー」だけである。
 キリスト教の様な、「神になった」、または、「神になりそ
うな神」が、過去も今も、いっぱいいる宗教とは違う。
 神になってしまった神は、「三位一体という形で一神だ」と
しているが・・。問題は解決していない。
 教皇、自らが神にしたいものが、今・現在も存在していると
いう状態。
 そのイスラム教の一神の神・アッラーに、「息子などあるも
のか」の立場で、「イーサー(イエス)」が、「神の子」であ
る訳がないの立場である。
 そしてまた、イスラム教は説く、神は預言者を世に遣わし、
イエスも預言者として遣わされたが、最終段階に最も優れた「
ムハンマド」が遣わされた・・と。
 イエスは、預言者として古く、劣っている・・と。
 それ以後、預言者は出現しない・・と、コーランは説く。
 だから、十字架に架け、死刑にしたと説く。
 それに対し、キリスト教は、嘘をついてイスラム教を攻撃す
る。
 キリスト教の得意なプロパガンダ(嘘宣伝)である。
 キリスト教は、あちこちを像で飾る(マリア像などがいっぱ
い)の偶像崇拝宗教なのに、
 イスラム教は、しっかり一神教を守っているのに、
 キリスト教は、得意なその嘘で、
 「イスラム教は偶像崇拝宗教だ」と言う。
 また、キリスト教は、「イスラム教は多神教だ」と、また嘘
を言う。
 そして、「ムハンマドは狂信者だ」とも言う。
 さらに、「『コーラン』は、ムハンマドが捏造(ねつぞう)
したものだ」と。
 キリスト教はプロパガンダ(嘘宣伝)に精を出す。
 まったく、逆の言葉を返したい。
 キリスト教は、荒れ方が酷(ひど)い宗教で、荒れたキリス
ト教が「よく言うよ」という状態。デマ宗教=キリスト教なの
である。
 昔から、今も、この性格は変わっていない。
 まず、キリスト教は、嘘は言わないこと・・。
.
 (参考)『コーラン』は、天使=ガブリエルを通じて、預言
者=ムハンマドに啓示された、神=アッラーの言葉を集めたも
の。
 啓示が下されたのは、610年から、632年にムハンマドが死ぬ
までの22年間であった。
 (参考)イスラム教徒にとってムハンマド(マホメット)は、
預言者であり完全な人間である。
 『コーラン』は繰り返し、ムハンマドを、「私は使徒として
の一個の人間以外の者(ではない)」(17章93節)。
 「この男は、昔の警告者と同じ警告者だぞ」(53章56節)と
言っている。
 彼は理想的なイスラム教徒であり、信徒の神であるが、しか
し、「人間」以外の何ものでもなく、絶対に神格化されては
ならない存在であった。
 ムハンマドを神格化すれば、アッラーの超越性が制限され、
イスラム教が成立しなくなるからである。
 (キリスト教は、安易にイエスを人間以外のものと神格化し、
神の超越性を制限し傷付けている)。
 (参考)イスラム教は・・、イスラム教の聖典(キターブ)
・イスラム教の聖典はもちろん『コーラン』だが、しかし、
 『コーラン』だけが聖典ではない。
 ここに言う『キターブ』とは、神が天使を通じて人類に下し
た啓示の書の事で、全体で140あるとされている。
 そのうち最も神聖なものは、モーゼに下された5書(「創世記
」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」)、
 ダビデに下された「詩篇」、
 イエスに下された「福音書」、
 そして、ムハンマドに下された『コーラン』である。
 しかし、『コーラン』以前の現実の諸聖典は歪曲されており、
神の啓示を正しく伝えないので、神は最後にムハンマドを通し
て、『コーラン』という正しい、完全な啓示を下された。
 『コーラン』が並ぶものなき聖典・・と説く。
 (参考)キリスト教の「天国」は、イスラム教では「楽園」
と呼ぶ。
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